この映画を最初に観たのはたぶん19年前。
まだVHSのビデオテープだった頃。
若い精神なりに物語を追ったし、まだまだ未熟な俺には知らない世界の認めたくない現実の、苦手な映画だったと思う。
それはたぶん、その頃の自分の環境が優しかったから。
人と関わり、人に揉まれ、自分以外の人間を知る機会を重ねた19年後の今、再度鑑賞してみた。
『アメリカン・ヒストリーX』
1998年のアメリカ映画。
主演はエドワード・ノートン。
共演はエドワード・ファーロング。
あらすじは
~黒人に父を殺され、狂信的な白人至上主義となった兄。
その兄の背中を見ながら育った弟。
ある時、強盗に入った黒人を兄は殺害し、刑務所へ服役する。
それから3年後、在りし日の兄に、より感化されていた弟は白人至上主義に傾倒し、黒人を目の敵としていた。
ヒトラーの『我が闘争』をレポートのテーマとし提出した弟。校長はその考えを危険視し、『アメリカンヒストリーX』というタイトルのテーマでレポートの再提出を指示する。
その日は、兄が出所する日でもあった。
尊敬する兄の出所を喜ぶ弟、白人至上主義の仲間たち。
だが、兄は変わっていた。
弟には白人至上主義の会合には参加するな、恋人には縁を切ると。
そして、白人至上主義を裏で促していた男にも会の脱会と、一切の関わりを断絶すると告げる。
兄の行動に会合は混乱を招き、兄弟はその場を逃げるように立ち去る。
兄の変わりように失望を抱きつつ、刑務所で一体何が起きたのか訊ねる弟。
兄は刑務所で彼の価値観を変えた経験を弟に語るのだった。~
昔見た時よりもっと深い、現代にも繋がる作品だった。
ハーケンクロイツのタトゥー入れた坊主頭の人が沢山出てきて、あれ?ナチ系の映画だっけ?って記憶に自信無くしかけたけど、想像以上の映画でした。
この映画では白人至上主義を焦点にはしているものの、差別という観念全てに置いては通じるものがある、深い作品となっています。
たぶん様々な差別は今も世界中にあるし、多様化すればするほど些細なこともきっかけになる。
どこの国がとか、肌の色、性、障害、別に普通に生きることに対してだってきっかけ次第では差別している気がします。
些細なこと。
本当に、最初は小さな妬み。
それに様々なこと付け加えて、一体何が原因だったのかわからなくなるように大きくし過ぎて、
それはまるで、最初植えた木が時を重ね、脈々と根を伸ばし、その最初の木が森へと変わるような感覚。
伐採しても再利用の価値はなく、燃え方は実際の木の比にならないもの。
憎しみという木。
『怒りは君を幸せにしたか?』
服役中に訪ねてきた、兄の恩師であり、現在は弟が通う学校の黒人の校長が問いかけた言葉。
刑務所の体験で兄は変わり、弟はそんな兄の経験と現在の兄の姿から、校長から指示を受けたレポートに気持ちを綴ります。
兄が白人至上主義に傾倒したきっかけは、ただ父を殺されたということだけではなく、父からも差別に対する刷り込みを受けていたいうこと、
そして、そんな父と兄を見つめていた弟もまた、自然と傾倒していったのでした。
差別の歴史は我々が産まれる前から存在していました。
それはたぶん、生まれたての無垢だった頃には無縁の観念。
聞いて見て、触れた考えにより、大なり小なり生まれてくる観念。
兄が弟に語り、シャワーを浴びながら、まだ幼い頃、浜辺で遊んでいた頃を思い出します。
人を殺し、なにもかもを変えてしまった今を、
あの無垢な頃にリセットできるのだろうか、
そしてまた、あの頃のように大事な存在と過ごす幸せだけの時間を取り戻せるのだろうか、
そんな祈りがあのシーンの印象でした。
こんな言葉で映画は締めくくられます。
我々は敵ではなく友人である。
敵になるな。
激情に溺れて、愛情の絆を断ち切るな。
仲良き時代の記憶をたぐりよせれば、良き友になる日は再び巡ってくる。
機会があれば観てください。
これはたぶん、これからも変わらず続く『価値観』に訴え続ける作品です。
まだVHSのビデオテープだった頃。
若い精神なりに物語を追ったし、まだまだ未熟な俺には知らない世界の認めたくない現実の、苦手な映画だったと思う。
それはたぶん、その頃の自分の環境が優しかったから。
人と関わり、人に揉まれ、自分以外の人間を知る機会を重ねた19年後の今、再度鑑賞してみた。
『アメリカン・ヒストリーX』
1998年のアメリカ映画。
主演はエドワード・ノートン。
共演はエドワード・ファーロング。
あらすじは
~黒人に父を殺され、狂信的な白人至上主義となった兄。
その兄の背中を見ながら育った弟。
ある時、強盗に入った黒人を兄は殺害し、刑務所へ服役する。
それから3年後、在りし日の兄に、より感化されていた弟は白人至上主義に傾倒し、黒人を目の敵としていた。
ヒトラーの『我が闘争』をレポートのテーマとし提出した弟。校長はその考えを危険視し、『アメリカンヒストリーX』というタイトルのテーマでレポートの再提出を指示する。
その日は、兄が出所する日でもあった。
尊敬する兄の出所を喜ぶ弟、白人至上主義の仲間たち。
だが、兄は変わっていた。
弟には白人至上主義の会合には参加するな、恋人には縁を切ると。
そして、白人至上主義を裏で促していた男にも会の脱会と、一切の関わりを断絶すると告げる。
兄の行動に会合は混乱を招き、兄弟はその場を逃げるように立ち去る。
兄の変わりように失望を抱きつつ、刑務所で一体何が起きたのか訊ねる弟。
兄は刑務所で彼の価値観を変えた経験を弟に語るのだった。~
昔見た時よりもっと深い、現代にも繋がる作品だった。
ハーケンクロイツのタトゥー入れた坊主頭の人が沢山出てきて、あれ?ナチ系の映画だっけ?って記憶に自信無くしかけたけど、想像以上の映画でした。
この映画では白人至上主義を焦点にはしているものの、差別という観念全てに置いては通じるものがある、深い作品となっています。
たぶん様々な差別は今も世界中にあるし、多様化すればするほど些細なこともきっかけになる。
どこの国がとか、肌の色、性、障害、別に普通に生きることに対してだってきっかけ次第では差別している気がします。
些細なこと。
本当に、最初は小さな妬み。
それに様々なこと付け加えて、一体何が原因だったのかわからなくなるように大きくし過ぎて、
それはまるで、最初植えた木が時を重ね、脈々と根を伸ばし、その最初の木が森へと変わるような感覚。
伐採しても再利用の価値はなく、燃え方は実際の木の比にならないもの。
憎しみという木。
『怒りは君を幸せにしたか?』
服役中に訪ねてきた、兄の恩師であり、現在は弟が通う学校の黒人の校長が問いかけた言葉。
刑務所の体験で兄は変わり、弟はそんな兄の経験と現在の兄の姿から、校長から指示を受けたレポートに気持ちを綴ります。
兄が白人至上主義に傾倒したきっかけは、ただ父を殺されたということだけではなく、父からも差別に対する刷り込みを受けていたいうこと、
そして、そんな父と兄を見つめていた弟もまた、自然と傾倒していったのでした。
差別の歴史は我々が産まれる前から存在していました。
それはたぶん、生まれたての無垢だった頃には無縁の観念。
聞いて見て、触れた考えにより、大なり小なり生まれてくる観念。
兄が弟に語り、シャワーを浴びながら、まだ幼い頃、浜辺で遊んでいた頃を思い出します。
人を殺し、なにもかもを変えてしまった今を、
あの無垢な頃にリセットできるのだろうか、
そしてまた、あの頃のように大事な存在と過ごす幸せだけの時間を取り戻せるのだろうか、
そんな祈りがあのシーンの印象でした。
こんな言葉で映画は締めくくられます。
我々は敵ではなく友人である。
敵になるな。
激情に溺れて、愛情の絆を断ち切るな。
仲良き時代の記憶をたぐりよせれば、良き友になる日は再び巡ってくる。
機会があれば観てください。
これはたぶん、これからも変わらず続く『価値観』に訴え続ける作品です。
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